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公式ブログ 堀哲郎弁護士の記事

スペインの風景(弁護士堀哲郎)

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黒くぬれ(PAINT IT BLACK)

弁護士 堀 哲郎

 

 

「黒くぬれ」と聞いて,即座にローリング・ストーンズを思い浮かべる年配の人は多いのではなかろうか。

1966年6月30日ビートルズが来日し,日本中が大騒ぎになった。

中学2年のときだった。

 

当時,ビートルズについては,「ミッシェル」や「ガール」など初期の名曲を収録したレコードを持っていたほどで,決して無関心ではなかった。

むしろ,熱狂とまではいかなくても興味津々であった。

 

にもかかわらず,あろうことか武道館での来日公演のテレビ放送を見逃し,仲間からは散々バカにされた。

見逃した原因は定かではないが,もしかしたら,同じ頃,ローリング・ストーンズの「黒くぬれ」(原題「PAINT IT BLACK」)を聴いたからかもしれない。

 

初めて聴いたとき,カミナリに打たれたような衝撃を受けた。もっとも,カミナリに打たれたことはないが,学生時代,卒業研究(「光電子増倍管サンプリング回路の分解時間向上に関する研究」)の実験中,400ボルトの電圧(電流値は不明)に感電したことならある。

ビリビリというような感覚ではなく,ドーン!という感覚であった。

いずれにせよ,魂を激しく揺さぶられ,震えるような衝撃を覚えた。

 

以来,来る日も来る日も繰り返しレコード(当初はシングル盤,その後アルバムを購入)をかけ続けた。

それでも高校時代は,ロックから離れ,フォークの岡林信康に傾倒したが,大学時代に入ると,再び,グランド・ファンク・レイルロード,マウンティン,レッド・ツェッペリン,ピンク・フロイド,ディープ・パープル,ユーライア・ヒープなどのいわゆるヘヴィメタに狂い,ロック喫茶に入り浸った。

しかし,引越しを繰り返すうち(高校卒業以来1980年1月に現住所地に落ち着くまでに7回引越をした。),大量にあったレコードはいつしかどこかへ消えてしまった。

 

月日は流れ,1990年弁護士となり,以来超多忙な毎日を送っていたある日,レコード店(この頃は既にCDが主流になっていた。)でローリング・ストーンズのベスト・セレクションを謳うCD(当然,「黒くぬれ」も収録されている。)を発見し,即購入した。

自宅に帰って「黒くぬれ」を聴きまくったのは言うまでもない。

大いにストレスを発散した。

当時同僚だった村木一郎弁護士もストーンズのファンであることがわかり,互いに共感した。

同じく同僚だった深田正人弁護士はクラシック派で,お気に入りはブルックナーであったが,私にはよくわからなかった。

 

その後,音楽を聴くことはほとんどなくなった。

わずかに,たまに思い出したように演歌を聴くだけである。

もちろん酒を飲みながら・・・。

 

ところが,つい最近,何を思ったのか,突如「黒くぬれ」が聴きたくなり,永らく書棚の隅に眠っていたCDを引っ張り出して聴いてみた。

するとどうだ,それまで沈んでいた気持ちが一気に吹っ飛び,あの震えるような感動が蘇えり,涙が溢れてきた。

そして,何か忘れていたものを思い出したような,そんな安らいだ気分に浸ることができた。

つくづく,人間にはこうした時間(ひととき)が必要なんだなあと思った。

 

ところで,ローリング・ストーンズ(私が狂った当時のメンバーは,ミック・ジャガー,キース・リチャーズ,ブライアン・ジョーンズ,ビル・ワイマン,チャーリー・ワッツの5人)については,早くに亡くなったブライアン・ジョーンズを除き,70歳を過ぎた今もなお,ハード・ロックの王者として現役を続けているという事実にも勇気づけられている。

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さよなら東京スカイツリー

弁護士 堀 哲郎

 

自宅屋上から東京スカイツリーを間近に(直線距離で約2.5㎞離れていますが,とても高い(634m)ので間近に感じます。)眺めることができます。

東京スカイツリーの建設が始まったのは,2010年4月には建設途中(天望(展望ではありません。)デッキより上がない状態)の東京スカイツリーを自宅屋上から眺めることができるようになったので,2009年以前からではないかと思います。

因みに,その頃購入した東京23区の区分地図には,今の東京スカイツリーがある場所には「新東京タワー建設予定地」と記されています。

そんなわけで,2010年4月から毎月1回自宅屋上から東京スカイツリーの定点撮影(私の場合,同じ場所から,三脚を使わずにデジカメで写真を撮るだけのことですが・・・。)を続けました。

当時,定点撮影に精を出していた人は多く,中には毎日同じ時間に撮影を続けたつわものもいたようです。

私の定点撮影は東京スカイツリー完成後の2012年6月をもって終了しました。

以後は,写真を撮ることはなく,晴れた日にときどき屋上に出て眺めるだけでした。

ところが,つい最近,愕然とする事態に遭遇しました。

ある日,久しぶりに屋上に出てみると,いつもの方向に東京スカイツリーが間近に見えていました。

それはいいのですが,東京スカイツリーと同じ方向の,自宅から約100m前方に,高層ビル建設に使う大型クレーンが設置されているのが目に飛び込んできたのです。

急いで現場に行ってみると,それまであった木造2階建の長屋が取り壊されてなくなっており,14階建マンションの建設計画が掲示されていました。

つまり,このマンションが完成すれば,東京スカイツリーは完全に見えなくなってしまうのです。

普通商業・併用住宅地区なので,「眺望権の侵害だぁ!」などと叫んでみても誰も相手にしてくれません。

そう,まさに「さよなら東京スカイツリー」なのです。

これが見納めということで,万感の思いを込めてシャッターを押したのは言うまでもありません。

 

思えば30年程前は,周囲には高層建物はほとんどありませんでした。

隅田川の花火大会の日は,屋上ならずとも,2階から,あるいは自宅前の道路上からでも打ち上げられた花火を愛でることができました。

もともと下谷七福神(元三島神社(寿老神),入谷鬼子母神(福禄寿),英信寺(三面大黒天),法昌寺(毘沙門天),弁天院(朝日弁財天),飛不動尊(恵比寿神),寿永寺(布袋尊))に囲まれた地域で,休日には下谷七福神巡り(これに小野照崎神社を加え八社巡りとも呼ばれています。)を楽しむ人々をちらほら見かける,静かな下町情緒溢れる地域なのです。

それが,あれよ,あれよという間に高層マンションに取り囲まれてしまい,残念ながら下町情緒は薄れてゆくばかりです。

 

ところで,「さよなら」とは言っても,私自身は,東京スカイツリーには一度も上ったことはなく,近くまで行ったことすらありません。

遠くから眺めるだけでした。

 

そこで最後に一首

東京スカイツリーは遠くにありて眺めるもの

近寄るところにあるまじや(笑)

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稲荷山古墳(明日香村・番外編)

弁護士 堀 哲郎

 

2016年(平成28年)12月30日付け朝日新聞朝刊の社会面に『稲荷山古墳に「真のあるじ」?』という見出しの記事が掲載された。
これまで,本ブログでは,「明日香村再び」,「明日香村3」と題して,明日香村(奈良県)について繰り返し触れてきたが,これは,明日香村が古代史に関わる資料の宝庫だからである。
前記新聞記事は,埼玉県にも,古代史に関わる,しかも第一級の(古代史を塗りかえた)資料が存在することをあらためて思い起こさせてくれた。
言わずと知れた「金錯銘鉄剣」であり,国宝となっている。
埼玉県民はもちろん,埼玉県内に職場をもつ私も大いに誇っていいと思う。

 

その鉄剣は,1968年(昭和43年),埼玉県行田市にある埼玉(さきたま)古墳群のうち最初につくられた稲荷山古墳から,鏡や勾玉,武具,馬具などとともに出土した。
当初は,古代史を塗りかえるほどの価値ある資料とは認識されず,そのように認識されるに至ったのは,10年後の1978年(昭和53年)になってからである(その経緯については,八木荘司の「古代からの伝言・日本建国」(角川文庫)にドキュメンタリー風に詳しく書かれている。)。
すなわち,1978年(昭和53年),エックス線撮影で金象嵌の銘文が確認され,「辛亥年(471年),杖刀人首(親衛隊長)として獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)を補佐した乎獲居臣(ヲワケ臣)が剣を作らせた」などと解読され,「ワカタケル大王」などの表記が記紀(古事記・日本書紀)における雄略天皇(漢風諡号)の和風諡号の表記(古事記では「大長谷若建」,日本書紀では「大泊瀬幼武」で,いずれも「オオハツセワカタケル」と言う。)と一致したことから,471年(5世紀後半)当時,ヤマト王権の支配が,少なくとも東国(関東)にまで及んでいたことが明らかになった。
一方,中国の宋朝の正史「宋書」中の倭国伝には,いわゆる倭の五王(讃,珍,済,興,武)が宋に朝貢した旨の記載がある。
讃,珍,済,興,武がいずれの天皇に該当するのかについては諸説あるが,最後の武が第21代雄略天皇であることについてはほぼ一致している。
そして,武すなわち雄略天皇は,478年に宋の順帝に上表し,父祖以来の功績について「……東は毛人を征すること五十五国,西は衆夷を服すること六十六国,……」などと述べ,ヤマト王権の支配が東国(関東)から西国(九州)にまで及んでいることを誇示している。
すなわち,「金錯銘鉄剣」の銘文は「宋書」倭国伝の記載とも一致するのである。
要するに,宋書や記紀などの書面上の記載から窺われる事実が「金錯銘鉄剣」という物的証拠(客観的資料)によって完全に裏付けられた(証明された)のである。
「金錯銘鉄剣」が古代史に関わる第一級の資料とされる所以である。

 

ところで,私が初めて「金錯銘鉄剣」の存在を知ったのは,司法修習生の頃で,1989年(平成元年)の弁護実務修習のときである。
すなわち,当時の弁護実務修習の一環として,埼玉弁護士会熊谷支部訪問というのがあり,その際,吉見百穴や埼玉古墳群など熊谷支部管内の名所旧跡を訪れ,埼玉古墳群では,さきたま資料館に展示されている「金錯銘鉄剣」の実物を観た次第である。
当時,修習期間は2年(現在は1年)で,このうち1年4ヶ月が実務修習に充てられていた(裁判修習8ヶ月,検察修習4ヶ月,弁護修習4ヶ月)。
上記修習(名所旧跡の見学等)も修習期間に十分余裕があったからこそであろう。
今思うと実に有意義な修習であった。
もっとも,私が古代史にハマッタのは,弁護士になって以降,1997年(平成9年)に黒岩重吾の「天の川の太陽」(中公文庫)を読んでからであり,したがって,上記修習との間に因果関係はない。
余談だが,この「天の川の太陽」(主人公は大海人皇子すなわち後の天武天皇,クライマックスは「壬申の乱」)については,ぜひともNHKの大河ドラマでやってもらいたいと思っている。
同じく黒岩重吾の「中大兄皇子伝」(講談社文庫)(大海人皇子の兄である中大兄皇子(後の天智天皇)が主人公,クライマックスは大化の改新の契機となった「乙巳の変」)と合体すれば,大河にふさわしい壮大なドラマが出来上がると思うが,いかがであろうか。

 

さて,先の新聞記事であるが,今般の東北大研究チームと埼玉県立さきたま史跡の博物館の共同調査によれば,鉄剣の持ち主と古墳の真のあるじが異なる可能性があり,ひいて古墳の真のあるじの出自についても東国か畿内か議論になるとのことで,この先ヤマト王権の地方経営のあり方について,その詳細がどこまで解明されるのか,興味は尽きないところである。

 

(ここから文体を変えます。)最後に,現在も出版されているかどうかわかりませんが,一応参考文献として,以下の書籍を紹介しておきます。

ワカタケル大王 黒岩重吾 文春文庫
古代史の迷路を歩く 黒岩重吾 中公文庫
古代史への旅 黒岩重吾 講談社文庫
古代史を読み直す 黒岩重吾 PHP文庫
古代史の真相 黒岩重吾 PHP文庫
古代史の秘密を握る人たち 関裕二 PHP文庫
古代史謎解きの「キーパーソン50」 関裕二 PHP文庫
古代日本の謎 神一行 学研M文庫
古代からの伝言・日本建国 八木荘司 角川文庫
記紀の考古学 森浩一 朝日文庫
現代語訳古事記 福永武彦訳 河出文庫
日本全国見物できる古代遺跡100 文芸春秋編 文春新書
(人物編)日本の歴史がわかる本[古代~鎌倉時代] 小和田哲男 三笠書房

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夜明けの上野公園

弁護士 堀 哲郎

 

今年7月29日から,4年振りに,早朝ウォーキングを再開しました。
前回(2013年2月のブログに記載)同様,古女房の発案で,コースと時間も,毎朝午前4時45分頃,まだ暗いうちに自宅を出発し,徒歩15分程で上野公園に到着します。
そして,公園内を一周して自宅に戻れば,全体で約40分のコースということになりますが,土,日は不忍池の一周が加わりますので,全体で約1時間となります。
早朝ウォーキングを再開した頃の不忍池は蓮の花が満開だったことも前回同様です。

 

さて,午前5時頃上野公園に到着するわけですが,この頃から辺りは薄っすらと明るくなり,夜明けの上野公園は,日中とはまるで違った顔を見せてくれます。
上野公園に到着すると,まず,目につくのは,私と同じようにウォーキングをしている人たちです。
同じ時間帯では,毎日,ほぼ同じ顔ぶれで,10人程の人が思い思いにウォーキングを楽しんでいます。
夫婦連れもいれば,1人で黙々と歩いている人もいます。なかには,「ちびまるこちゃん」の影響でしょうか,後ろ向きに歩いている人もいます。
ちなみに私の場合,再開初日こそ夫婦2人一緒にウォーキングしましたが,2日目からは,自分のペースで歩きたいとの妻の要望を受け入れ(妻のほうが速い。),それぞれ単独でウォーキングするようになりました。
2人とも前向きで歩いています。
もちろん,ウォーキングではなく,ジョギングをしている人もいますが,ジョガーの数は,ウォーカーに比べて遥に少ないようです。
ウォーカーやジョガーの他には,体操をしている人や,グループで詩吟や民謡の練習をしている人たちもいます。

 

辺りが薄っすらと明るくなる午前5時頃は,どうやらホームレスの人たちの起床時間となっているようで,公園内のあちこちで(それぞれ場所は決められているようです。),いっせいに起きだし,周辺の清掃を始めるのには驚かされました。
公園内で暮らすホームレスの人たちには,暗黙のルール(掟)があるようで,それなりに秩序が保たれているようです。
ちなみに,午前5時頃から,数台のゴミ回収車が公園内のゴミの回収に巡ります。

 

この他,終電に乗り遅れたのか,明らかに公園のベンチで夜を明かしたと思われる人たちがいます。
サラリーマン風の男性,オッサン,若者,カップルなど様々です。

 

なお,早朝ウォーキング再開当初の8月には,公園内にもポケモンGOに興じている人がかなりいましたが,9月に入るとほとんどいなくなりました。

 

ここで,人間以外の生き物に目を転じてみましょう。
まず目につくのが猫です。
3~6匹程度の群れが,縄張りでもあるのか,公園内のあちこちに散在しています。
もちろん,ローン・キャットとでも言うのでしょうか,1匹だけでいる猫も多々います。
あるとき,1匹の猫が1羽のカラスに襲いかかるのを目撃したことがあります。
抜き足差し足でカラスに近づいた猫が跳びかかった瞬間,カラスは,間一髪で飛びたち難を免れたのでした。
そのカラスですが,こちらのほうは圧倒的な数を誇っています。
夜明け頃の公園内の樹木はどれもカラスだらけと言っても過言ではなく,実に不気味な光景です。
あるとき,辺りが明るくなってから,1羽のカラスが,飛んでいるセミを襲い,空中で捕獲するのを目撃しました。
セミと言えば,この頃,公園内には数多くのセミ(ほとんどアブラゼミ)の亡骸が落ちており,命のはかなさに思い至るのでした。

 

以上,上野公園内の様子でした。

 

それでは,不忍池の方はどうでしょうか。
こちらにも,池を周回するウォーカーやジョガーはいますが,その数はジョガーのほうが多いようです。
他に,鯉に餌をやっている人,双眼鏡を手にしたバードウォッチャー,一眼レフカメラを手にした写真撮影者(主に蓮の花の撮影)などがいます。
そして,特筆すべきは,やはりポケモンGOに興じている人がたくさんいたことです。
突然,集団で走り出したりするので,怖かったことを覚えています。
もっとも,こちらは,公園内と違って,全くいなくなることはありませんでしたが,それでも9月に入ると,その数は目立って減少しました。

 

ところで,早朝ウォーキング再開当初は自宅を出て上野公園に到着するまで約15分かかっていましたが,9月下旬には約10分にスピードアップするに至っています。
そして,今回の早朝ウォーキングは,その成果を台無しにする出来事に遭遇したことにより,9月26日の早朝を最後に終了することになりました(涙)。

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私の暮らし

弁護士 堀 哲郎

 

物心ついた頃,我が家には,テレビも冷蔵庫も洗濯機もありませんでした。
その他家庭電化製品の類は何もありませんでした(ラジオはあったと思う。)。
もちろん,車も電話もありませんでした。

 

「たらい」に井戸水を汲んで洗濯板を縁に掛け,衣類に固形の洗濯石鹸をこすり付け,手でゴシゴシと洗っていた母の姿が記憶に残っていますが,不思議と当時の暮らしに不自由を感じた記憶はありません。
子どもたちの遊びはといえば,缶けり,ポコペン,とけい,なわとび,竹馬,馬乗り,肉弾,ドッジボール,ボール蹴り,三角ベースボール,秘密基地の建設などで,あとは山野を駆けずりまわっていました。
わずか60年程前の光景ですが,子どもたちにとって幸せな時代でした。

 

いま(現代)はどうでしょうか。
ちまたにはものが溢れています。
とりわけ,パソコン,ケイタイ,スマホ等,通信手段の発達・普及は目を見張るものがあり,日々の暮らしは格段に便利になりました。
ただ,それで幸せかというと,決してそうは言いきれないと思う今日この頃です。
ゲームに熱中する子どもたちの姿を見て,日本,否,人類の未来に一抹の不安を覚えるのは私だけでしょうか。

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熱狂時代

弁護士 堀 哲郎

 

中学2年の夏休み,父に連れられて中日球場に中日-巨人戦を観に行った。
父にプロ野球の試合を観に連れて行ってもらったのは,後にも先にもこのとき一度限りである。
父は当然ながら中日ファンであったが(岐阜は中日の準フランチャイズである。),私は,当時は巨人ファンだった(巨人・大鵬・玉子焼の時代であった。)。
というより,大の長島茂雄ファンであった。
記憶は曖昧となっているが,試合は8回まで巨人が3点リードしていたように思う。
巨人の投手はエースの城之内。
すると父が,突然,帰ると言い出した。
試合が終わってからだと球場から出るのに長時間かかるということらしい。
そして,帰りの車の中,父と私は,ラジオで,中日の新人広野が,城之内をリリーフした,同じく新人の堀内投手から,代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放ったのを耳にし,この歴史的瞬間を目撃し損ねたことを腹の底から悔しがったのであった。
このときの影響かどうか定かではないが,高校に入る頃には,巨人のV9戦士森捕手が高校の先輩であったにせよ,私は,ガチガチの中日ファンに,否,巨人さえ優勝しなければいいというアンチ巨人に変貌を遂げていた。
強者に対する反発心もあったのであろう,大相撲でいえば,アンチ大鵬で柏戸ファンであった。
そんなわけで,大学入学後,中日が20年ぶりにリーグ優勝した瞬間をテレビで目の当たりにしたときは,涙を流しながら,「燃えよドラゴンズ」を放歌高吟した。
……1番高木が塁に出て~,2番谷木が送りバント~
そして,この年,スーパースター長島茂雄は「巨人軍は永久に不滅です」と言って,静にバットを置いたのである。
その後,有力選手が次々と大リーグに流出するようになると,プロ野球に対する興味は急速に薄れていき,今やプロ野球中継を見ることはほとんどなくなった。

 

替わって興味は1993年に発足したJリーグに移っていった。
当時,浦和で弁護士をしていたことから(1990年登録),他のサッカー好きの弁護士と同様,当然の如く浦和レッズ(レッドダイヤモンズ)のファンとなった。
確か,前身は三菱重工サッカー部で,過去に日本リーグでの優勝経験も有していたと思う。
ところが,Jリーグ発足当初は,Jリーグのお荷物と言われ,毎年最下位争いを演じていたが,そんなところも応援したくなった理由かもしれない。
もっとも,新聞やテレビで見た試合結果に一喜一憂する程度で,試合会場には一度も足を運んだことがなく,「そんなのはファンとは呼ばない」などと水口弁護士あたりから言われそうである。
それでも,日本代表の野人岡野(浦和レッズ)の決勝ゴールでワールドカップ初出場を決めた瞬間,その4年前のドーハの悲劇の瞬間も,まざまざと脳裏に焼き付いている。
特に,ドーハの悲劇では,選手はピッチに座り込んで茫然自失の態であったが,それをテレビで観ていた私もまさに茫然自失の状態であった。

 

ところで,戦後の昭和の時代,国民はプロスポーツに熱狂していた。
とりわけ,プロ野球,プロレス,プロボクシングに対する国民の熱狂は圧巻であった。
プロレスについて言うと,力道山vs鉄人ルー・テーズ(得意技:バックドロップ(脳天逆落とし)),力道山vs吸血鬼フレッド・プラッシー(得意技:噛み付き),力道山vs壊し屋デストロイヤー(得意技:4の字固め)の各世界タイトルマッチには日本中が熱狂したものである。
しかし,その後,ヒーロー力道山が客死し,また,プロレスのショービジネスの実態が明らかになるにつれて人気は衰え,ついには熱狂時代に幕を下ろすことになった。
因みに,力道山は,元大相撲の力士であり(関脇まで上がったと思う。),「力道山」というのは,そのときのしこ名である

 

プロボクシングについては,日本人で初めて世界チャンピオンになったのは白井義男であるが,真っ先に挙げなければならないのは,何といっても,米屋の小僧をしながらボクシングジムに通ったというファイティング原田であろう。
不敗の王者エデル・ジョフレを破った世界タイトルマッチで,「原田ラッシュ! 原田ラッシュ! 原田ラッシュ!」と繰り返
されるアナウンサーの絶叫は,今も鮮明に耳に残っている。
世界チャンピオンのまま交通事故死した,天才ボクサー大場政夫も忘れられない。
ただ,プロボクシングもまた,プロレスと同様の運命を辿ることになった。
かつて複数あったボクシングの定時番組(「ダイヤモンドグローブ」等)はなくなり,今では不定期に世界タイトルマッチだけが放送されている。
原因は世界チャンピオンの粗製乱造にあると私は思っている。

すなわち,まず競技団体が,以前は,WBAとWBCの2団体だったのが,その後,IBFとWBOが加わり,現在では4団
体になっていることに加え,これが最大の原因だと思うが,世界タイトルマッチを多く作り出すため,階級をやたらと細分化してしまったのである。
結果,世界チャンピオンの粗製乱造につながり,統一世界王者,真の世界王者,5階級制覇の王者などといった言葉が出現することになった。
試合そのものがつまらなくなったのは言うまでもない。

 

熱狂時代は遠くなりにけり。
これが,今の私の率直な心境である。
この先,何に熱狂しようか……?

 

以上,独断と偏見に基づき,勝手放題,好き放題に述べてきた。
また,文献等にあたることは一切しておらず,あくまでも自分の記憶にあるがままに述べているので,多々間違いがあるかもしれない。
何卒ご容赦を!

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谷根千散歩

弁護士 堀 哲郎

 

現住所地に住んで36年。
子らは皆巣立ち,1年前から夫婦水入らずの暮らしをしている。

 

5月5日,ゴールデンウィーク中どこへも出掛けず,ひたすら家に引きこもっていた私を見かねたのか,古女房が「家でゴロゴロしてないで,散歩に行こう。」と言い出した。
とくに異存はなく,天気も文字通り五月晴れであったことから直ちにこれに応じたが,娘夫婦が住む浅草方面は飽き飽きしていたので,とりあえず,以前やっていた早朝ウォーキングのコースである上野公園に向かった。

 

午前9時10分頃自宅を出て,歩いて15分ほどで到着。
すると,上野駅方面から続々と人波が押し寄せて来るのに遭遇した。
そうか,今日は子どもの日,上野動物園が無料の日なのだ。
もっとも大人は有料で入場券売り場の前には長蛇の列が出来ていた。
早々と上野公園を通り抜け,不忍池を半周し,不忍通に出た。町名は池之端である。

 

ここにゴルフ練習場があるが,司法修習生のころ,よく通ったものである。
当時,司法研修所がこの近く(湯島)にあり,私は,自宅から司法研修所まで歩いて通っていたが,帰りに時々寄っていたのである。

 

さて,不忍通を少し北上すると上野動物園の花園門(池之端口)がある。
こちらはあまり知られていないのか,並ばずに直ぐ入園できているようで,動物園の混雑時にはお勧めである。

 

不忍通をさらに北上すると,やがて東京メトロ千代田線根津駅に至り,町名も根津に変わる。
時計は午前10時をまわっていた。
ここから,昨今流行りの,いわゆる谷根千(谷中・根津・千駄木)散歩の始まりである。
過去に何度も訪れているので(家族の他,事務所の同僚弁護士らと訪れたことも複数回ある。),今回は街並をじっくり鑑賞することを主眼とし,いわゆる名所旧跡は避けることにした。
そのため,ツツジが見ごろの根津神社はパスした。
因みに,根津神社(根津権現)については,司馬遼太郎の街道をゆく37「本郷界隈」(朝日文芸文庫)に由来等が詳しく記されている。

 

さらに進むと千代田線千駄木駅に至り,周辺の町名も千駄木となっている。
千駄木駅と同じ場所にあるバス停の名称は「団子坂下」となっており,ここを左折すると団子坂である。
団子坂を上っていくと鴎外記念本郷図書館(森鴎外旧居跡)があるが,私たちは,これもパスし,団子坂下を右折して三崎坂を上っていった。
町名は谷中になっている。
三崎坂を上っていくと,両側はお寺,お寺,お寺である。
帰宅後,地図を見ると,無数の卍印が記されていた。
そのまま進めば谷中霊園に行きつくが,途中右折して上野桜木に向かった。
すなわち,谷中霊園,谷中銀座,朝倉彫塑館などはパスしたわけであるが,一度も行ったことがない人や猫好きの人にとっては,朝倉彫塑館は見逃せないところである。

 

時計は午前10時40分を指していた。
このあと帰途につき,寛永寺,JR鶯谷駅を経て,自宅に戻ったのは午前11時であった。

 

以上,時間にして約2時間,万歩計の歩数は1万3000歩,かかった費用は0円で,谷根千の風情ある街並を十分堪能でき,充実した休日を過ごすことができた次第である。

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あの日(2011.3.11)

弁護士 堀 哲郎

 

2011年3月11日(金),この日,私は当番弁護士だった。
午前8時に都内の自宅を出て,午前8時40分から同9時まで川口警察署にて既受任の被疑者に接見し,次いで午前9時58分から同10時15分まで大宮警察署にて同じく既受任の被告人に接見した後,午前11時頃事務所に入室した。
すると,当番弁護士の出動要請が1件来ていた。
勾留場所は大宮東警察署である。
もっとも,この日は午後2時から同5時30分までの法律相談(事務所相談 ― 詳しくはこちらの 法律相談のご案内 をご覧下さい。)の担当でもあったので,大宮東警察署留置管理係には,午後6時30分頃接見に赴く旨連絡を入れておいた。

 

そして,午後2時46分。
突然,ゆっくりとした大きな揺れ(後に震度6弱と判明)がやって来た。
しかも,かなり長い間……,まるで船に乗っているような感じであった。
東日本大震災である。
このとき,事務所に在室していた弁護士は,河原崎,水口,吉岡及び私の4人であるが(この外,事務局が5~6人いたはずである。),私以外の誰かが,直ちに,非常階段に出る扉をオープンにした。
すると,階上の人たちが続々と非常階段を降りていくのが見えた。
私たちは,このまま室内に留まっているのがいいのか(ちなみに事務所は3階である。),それとも外に出た方がいいのか,決断しかね,非常階段を降りていく人々を呆然と見送っていた。

 

揺れが収まった後,我に返り,自宅の固定電話や妻のケイタイに電話し続けたがなかなか繋がらず,午後3時15分頃になって,ようやく妻と連絡がとれ,家族の無事を確認することができた。もっとも,部屋の中は物が散乱し,建物自体もかなりのダメージを受けたとのことであった。

 

その後,徐々に情報が入り,鉄道はすべてストップし,運転再開の見通しは立っていないとのことであった。
自宅は都内なので(「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」という人気番組があるにはあるが),バスでの帰宅も無理である。
というわけで,午後4時頃には,この日の帰宅を断念し,事務所に泊まることにした(帰宅困難者となった貴重な体験である。)。
もちろん,大宮東警察署(最寄りの鉄道駅は東武野田線の七里駅である。)での接見も断念せざるを得なかった。
近くの者は徒歩で帰宅するなどし,結局,私と事務局2人の合計3人がやむなく事務所に泊まることになった。
そして,午後5時頃,近くのコンビニに食料品の買出しに行ったが,ほとんど売切れであった。
周辺にも帰宅困難者が多く出たようである。

 

午後7時36分緊急地震速報が流れた。
福島沖で地震(余震)発生とのことである。
午後2時46分のときは何も流れなかったのに……

 

3月12日(土)午前11時京浜東北線の運転が再開された。
午前11時30分浦和発の京浜東北線に乗車し帰宅の途についたが,大混雑の上頻繁に停止するなどしたため,最寄りの鶯谷駅に到着したのは午後0時40分であった(通常なら28分で着くところ,1時間10分もかかった。)。
そして,帰宅して自室に入り,びっくり仰天。
自室に2つある大型の書庫の扉がいずれも破損して脱落し,中にあった書籍が床に散乱している惨状であった。
何よりも驚いたのは,大人1人が押してもびくとも動かない書庫が,揺れの方向に沿ってだと思うが,約80㎝も移動していたことである。
隣室の箪笥も同様であった。
この他,各階の壁に所々ひび割れが生じていたりもした。
このあと終日後片付けに追われたのは言うまでもない。

 

3月13日(日)午前8時に自宅を出て,午前10時ら同10時47分まで大宮東警察署にて当番弁護士として被疑者に接見し,ようやく当番弁護士の出動要請に応えることができた(なお,原則として,弁護士会に出動要請があってから24時間以内に接見しなければならないことになっている。)。
もっとも,このときの接見は異様であった。
というのは,接見室は密室であるため,日中でも灯りがないと真っ暗である。
ところが,この日は震災の影響で署内が停電となっており,そのため,懐中電灯を貸与されての接見となった。
初めての体験である。
このあと,午前11時27分から同11時44分まで大宮警察署にて既受任の被告人に接見し,次いで午後0時45分から同1時11分まで川口警察署にて既受任の被疑者に接見したが,いずれも同様であった。

 

震災の影響をもう一つ。
3月14日(月),この日,さいたま地裁で午後1時30分から刑事事件の公判が予定されており,弁論要旨も用意していた。
ところが,当日になって,震災のため,上記公判期日は職権で取り消され,1ヶ月先に延期されてしまったが,これも初めての体験である。
ところで,この事件は,事実関係に争いがなく,確実に執行猶予判決が見込まれる事件であった。
すなわち,被告人にとっては,1ヶ月も余計に身柄を拘束されることになったわけで,とんだ災難であった。

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〆切り迫る

弁護士 堀 哲郎

 

あっという間に公式ブログの順番が巡ってきました。

弁護士8人でまわしているので,だいたい2ヶ月に1度の割合で巡ってくるのですが,本当に「あっという間」というのが実感です。今回,私自身は21回目となるわけですが,さて,何を書こうか……,困ったなあ……。

原稿の〆切りに追われる作家やライターの気持・苦悩がよくわかるというものです。

 

そういえば弁護士になってもうすぐ丸26年,ずっとこんな思い(〆切りに追われる)をしてきたような気がします。

 

弁護士の活動の大部分を占めるのが書面の作成ですが,とくに裁判所に提出する書面は,その多くが提出に期限があるからです。

上訴(控訴,上告)や抗告などの不服申立のように,法律上期限(期間)が定められているのもありますが,多くは,例えば民事訴訟における準備書面のように,法律上はとくに期限が定められているわけではありません。

ですが,準備書面でいえば,裁判所(裁判官)から,いついつまでに提出するように,と事実上の期限が付されることが多々あります。

 

また,刑事公判では,最終弁論を行なう前に弁論要旨の提出を求められます。

この点,ある殺人事件で,最終弁論が予定されている公判期日の前日,先輩弁護士とともに事務所に泊り込み,徹夜で渾身の弁論要旨を作成(先輩弁護士が起案し,私が校正)して公判に臨み,結果,(殺人罪で)執行猶予判決を得たことは,今では懐かしい思い出となっています。

 

さらに,仮差押や仮処分のように,一刻の猶予もならない場合もあります(起訴前弁護活動然り。)。

実際,タッチの差で仮差押に成功し最終的に大きな成果を挙げたこともあります。

 

従業員の退職金等債権を保全するため,会社の売掛金債権(支払日は仮差押申請の翌日に迫っていました。)の仮差押をしたのですが,裁判所に仮差押申請する前日の夜10時まで,事務局員も総出で準備しました。

この事件は,以前(2014年1月),本ブログに「ある倒産事件」と題して詳述しています。

 

 

さて,〆切りが迫っているにもかかわらず,書くことが思い浮かばないため,今回もまた,とりとめのない話に終始してしまいました。申し訳ありません。

次回はもう少しましなことを書きたいと思っています(毎回同じようなことを言っている気もしますが……。)。

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私の「こころ旅」

弁護士 堀 哲郎


NHK・BSプレミアムの「こころ旅」を毎回楽しみにみています。

火野正平さんとは年齢が近いせいか(私のほうが年下です。),共感できる部分が多々あるばかりか,何よりも寄せられたお手紙に書かれた「私のこころの風景」にはいつも感動させられ,こころを癒されています。

そんなわけで,この番組(これの前は朝ドラ)をみてから仕事に出かける毎日です。


さて,私のこころの風景は,願成寺(岐阜市)境内入口にある山門の両側に屹立する仁王尊(金剛力士像)と本堂に至る石段下から見上げた風景です。


私が2歳のころ,母が第2子(妹)出産のため,ひとり父の実家(農家でした。)に預けられました。

後年聞いたところでは,母恋しで泣いてばかりいたようです。

そんなある日,同じ農村内にある願成寺に連れて行ってもらいました。

誰に連れて行ってもらったのか,どのようにして行ったのかは全く記憶にありません。記憶にあるのは,入口に屹立する巨大な仁王像(文字通り仁王立ち)に肝をつぶしたことと,本堂に至る石段が,天空にも届くがごとく,とてつもなく長かったことです。ちなみに本堂そのものは記憶に残っていません。

それからというもの,何か悪戯したり,言う事を聞かなかったり,泣きやまなかったりすると,祖母は,決まって「願成寺からおにおうさまがやって来るぞ」と言って私を脅かしました。


このときから50年後,帰省した折,ふと願成寺に行ってみようと思い立ち,50年ぶりに願成寺を訪れました。父の実家から歩いて5分程の距離でした。

巨大と思った仁王像はそれほどでもなく,天空にも届くと思った石段はわずか20段にすぎず,階段下から階段上にある小ぢんまりした本堂が見えていました。

このとき,2歳のころの自分を思いやり,何となく切ない気持ちになったことを覚えています。


それから5年後,三度願成寺を訪れることになりました。父の葬儀でした。

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9条

弁護士 堀 哲郎


工学部出身の私は,恥ずかしながら29歳になるまで,憲法と法律の区別ができていませんでした。憲法の条文すら,一度も読んだことはありませんでした。29歳のとき,会社を辞めて司法試験の勉強を始め,初めて憲法の何たるかを知った次第です。当初は,憲法の条文を丸暗記することから始めました。条文は全部で103条あり,比較的短期間に覚えることができました。(後日談ですが,丸暗記する必要はまったくなく,どこに,どういう(何に関する)規定があるかわかれば,それで十分だと言われ,無駄な努力をしたことに気付かされました。)
ちなみに民法は1044条まであり,とても覚え切れませんでした。


さて,憲法とは何か,については憲法自身次のように定めています。


98条1項

 この憲法は,国の最高法規であって,その条規に反する法律,命令,詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は,その効力を有しない。


また,こうも規定しています。


99条

 天皇又は摂政及び国務大臣,国会議員,裁判官その他の公務員は,この憲法を尊重し擁護する義務を負う。


ところで,今,国会では,集団的自衛権(自分の国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を,自分の国が直接攻撃されていないのに,実力で阻止する権利)の行使を容認する,いわゆる安保法案の審議がなされています(衆議院では強行採決)。この法案については,各界・著名人から違憲(憲法9条違反)の声があがっています。日本弁護士連合会も早々と違憲声明を出し,埼玉弁護士会その他の単位弁護士会も然りです。さらに,憲法学者の大多数が違憲と断じています(朝日新聞アンケート)。また,国会周辺はもちろん,全国各地で反対のデモ(パレード)も行なわれています。


9条を巡っては,これまで様々な議論がなされてきましたが,百聞は一見に如かず,次に9条を掲げます。専門家ならずとも,素直に(常識的に)読めば,集団的自衛権の行使(限定的にせよ)が違憲であることがよくわかると思います。


9条1項

 日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。

2項

 前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。


いかがですか?

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交通事故における駐車車両の責任・2

弁護士 堀 哲郎

 

以前(2012年10月),本ブログに,「 交通事故における駐車車両の責任( 旧・公式ブログ ) 」と題して,駐車中(運転手は車から離れていました。)の車の運転手の民事責任について述べましたが,今回は刑事責任について述べてみようと思います。

 

事案は,小学生Aが自転車で走行中,進路前方に違法駐車(駐車禁止区域)していたトラック(B車)を迂回しようとして対向車線に出たところ,正面から来たフォークリフト(C車)にはねられ死亡したという交通事故です。この事故で,B車運転手は車庫法違反容疑で,C車運転手は業務上過失致死容疑で,それぞれ送検されましたが,いずれも不起訴処分となり,「刑事責任なし」とされました。

 

しかし,私は,B車運転手には,車庫法違反のみならず,業務上過失致死罪の責任を問う余地があったのではないかと思っています。この点,つい最近(2015年6月2日),興味深い事件が発生したので,紹介します。

 

が,その前に,人身交通事故を起こした場合の刑事責任を規定した法律を整理してみます。

 

上記事案当時(平成13年9月)は,刑法211条の「業務上過失致死傷罪」で,法定刑は,5年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金でした。
その後,平成13年に,同条2項に「自動車運転過失致死傷罪」が追加され,法定刑が,7年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金に引き上げられるとともに,新たに同法208条の2に「危険運転致死傷罪」が追加され,法定刑は,負傷させた場合が15年以下の懲役,死亡させた場合が1年以上の有期懲役というように厳罰化されました。
そして,平成25年には(施行は平成26年5月20日),上記「自動車運転過失致死傷罪」及び「危険運転致死傷罪」が刑法から削除され,新たに特別法として成立した「自動車運転死傷行為処罰法」の中に「危険運転致死傷罪」,「過失運転致死傷罪」として規定されました(法定刑は変わりません)。

 

ところで,これらは,いずれも自動車を運転中であることが構成要件とされています。したがって,駐停車中の車両に適用の余地はありません。

 

そこで,さきほど触れた興味深い事件ですが,事案は,片側2車線の道路左側(駐停車禁止区域)に停車していた乗用車(D車)の運転手が,降車のため,運転席ドアを開けたところ,後方から原付バイクで走行してきたEが衝突,転倒し,さらに後方からきたタクシー(F車)にひかれ死亡したという交通事故です。
この事故で,警察は,D車運転手を業務上過失傷害(後に業務上過失致死に切り替え。)容疑で現行犯逮捕しました。すなわち,D車運転手の刑事責任として業務上過失致死罪に問おうというわけです。

 

そうすると,冒頭に述べた事案についても,業務上過失致死罪に問う余地があったのではないかと考える次第ですが,後の事案では,停車していたとはいえ,運転手はまだ車内にいたのに対し,先の事案では,一時的にせよ,運転手は車から離れていたというところが,「業務上過失致死傷罪」の成否に影響するかもしれません。

 

いずれにせよ,人身交通事故のほとんどは「自動車運転死傷行為処罰法」が適用されるでしょうが,刑法の「業務上過失致死傷罪」が適用される余地もまだまだ残されていると言えます。

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