ブレードランナー2049の封切と,『ブレードランナー』

「ツイン・ピークス・シーズン3」といい,今度の「ブレードランナー2049」の封切といい,80~90年代映画ファンにはうれしいことの連続です。

 

つい先日も,ベーシック・インカムの必要性について論じる報道特集の中で,「ブレードランナー2049」の中から「使い捨ての労働力」である「レプリカント(ブレードランナーに出てくるアンドロイドの呼名)」が産み落とされる(=製造される)シーンが紹介されていました。

 

最初に「ブレードランナー」(オリジナルのほうです。以下全て同じ。)を見た当時は,異様な,だけどどこか懐かしい映像美とか,レプリの首領「ロイ・バテイー」役のルトガー・ハウアーの魁偉な迫力に強烈な印象を受けましたが,当時の私には,まだこの映画の深遠な内容までは分かりませんでした。

今,改めてこの映画を観直してみると,「レプリカント(造られたモノ)の人間(造った者)に対する反逆」は,「人間(被創造者)」の「神(創造者)」に対する反逆という古くて新しいテーマが窺える点,あるいは,たとえどんなに「人間に似て」いても(感情すら持っているのに),「人間でないモノ」である以上は,容赦なく狩り取って抹殺してしまう(ブレードランナーが後ろからレプリを射殺しても倫理上の問題はない)」といった所に,色濃いキリスト教的世界観を見ることができることとか,観るたびに様々な発見があります。

 

けれども,私が一番,この映画を観直してみて,驚いたのは,この映画の物語の設定は「2019年」,あとわずか2年後のことなんですね。

 

たしかに,惑星間飛行とか地球外植民地の有無とか,現在の世界と違っているところもありますが,それ以上に,この映画と今の現実世界では共通点が多い。

 

今の現実の世界で立ち現れた,「人工知能」の現実化や台頭,あるいは,「アイデンテイテイ・クライシス(自己同一性・自己同一感の危機。分かりやすく言えば,自分が何者か分からないことへの根源的な不安)」,あるいは,破壊された「地球環境」などの点は,この映画中の世界の「デイストピア(「ユートピア」の反対語)」っつぷりと比べても,そう大差ないのではないか,そう思えてなりません。